草を刈り、また草を刈る

草刈り 農行

道元禅師の言葉に「髪を剃りまた髪を剃る」とあります。

仁治二年、辛丑夏安居日、これをかきて慧達禪人にさづく。これ出家修道を感喜するなり。ただ鬢髪をそるなほ好事なり、かみをそりまたかみをそる、これ眞出家兒なり。今日の出家は、從來の轉法華如是力の如是果報なり。いまの法華、かならず法華の法華果あらん。釋迦の法華にあらず、諸佛の法華にあらず、法華の法華なり。ひごろの轉法華は、如是相も不覺不知にかかれり。しかあれどもいまの法華、さらに不識不會にあらはる、昔時も出息入息なり。今時も出息入息なり。これを妙難思の法華と保任すべし。開山觀音導利興聖寶林寺入宋傳法沙門 道元記 押華

山城興聖寺に「正法眼藏法華轉法華」一巻を書し、慧達に授く。強調筆者

また同じ上記の法華の巻に、出息入息の文字が見えます。

禅師さまが、中国から戻られ伏見深草(現在は宇治にある)に開かれた興聖寺で著された正法眼蔵の中にある言葉です。

今日はそのお言葉にちなんで、髪ならぬ草に置き換えてタイトルにしました。
まあ、毎日思い浮かぶ言葉をその日のブログネタ・テーマにしとるわけです。
安易ですが、余程のことがない限り、これでも書き続けることに意義はあります。

草取りをしておりますと坐禅のようなもので時を忘れます。
息は無意識でしよるわけですから心配ないのであります。
ただこの息の出入りを、すなわち呼吸というものに集中するのが昔も今も仏法の華です。
髪を剃るときには髪剃りに集中し、草刈りもまた集中なわけです。

仏法というと何か特別なものがあると思うかも知れません。
なんにも特別なことはありません。
普段の生活がすべて仏法であります。
その生活の中で、ちゃんと坐って息だけに集中するのが仏法の華ということです。


今日のタイトル画像のような草刈り機があればいいなと思いました。
これはこれで工夫ですね。
今日は京都に急な来客があるためマキノに帰れません。
明日は、有給を取って今津税務署に参ります。

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