何のためにと言われると、坐禅のためと言えるのが〇〇。
誰のためにと問われると、自分のためと答えるのが〇〇。
正解なんてないのですが、そういう話は全く意味がありません。
理屈で坐禅が解ってたまるか!
そんなものは観念に過ぎぬ。
坐禅してなんぼ。
ただ瑩山禅師様は、
「坐禅無量の功徳を一切衆生に回向せよ」と仰った。
坐禅用心記という書物でそう述べられてます。
坐禅の功徳は無限にある。
その功徳を一切の生きとし生けるもの(衆生:人間・動物)に捧げなさい。
回向という言葉は難しいのですが簡単に申せば、手向ける、捧げるでいいでしょう。
ですから坐禅は自分のためでなくて、誰かのためにするものだと思います。
誰かはわかりません。
苦しんでいる人かもしれませんし、悩んでる方かも・・・
苦悩は他人がどうこうできるものではないかもしれない。
だからこそ、坐禅に打ち込むっきゃないのであります。
念息(数息を含む)に関する資料(引用:駒沢大学)
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/20873/KJ00005096507.pdf
今日は朝6時から仕事で、今ようやく休憩してます。
明日4/17は、棟梁から参禅堂の「ベースコンクリート打ち」と聞いてます。
コメント
そよ・・とした風も吹かず、ベタ凪・・
海を見ているとそういうときがあります。そこに身をおいた時、静寂感に包まれます。
坐った時の境地やな・・勝手にそう思います。風も波も行動の前には坐っとるんかいな・・勝手にそう思います。^_^
今日の海は凪ですか?
夕凪は有名な言葉ですが、朝からベタ凪。
波風ばかり立ててるわたし笑
坐ればわかる。わかれば坐る。
せめて心だけは平穏でありたい、と私も勝手に思います。